■5月23日はキスの日です■
鉢屋三郎は息を呑んだ。今日、5月23日は「キスの日」なのだと、ネットで知ったからである。彼はそのときちょうど、雷蔵の部屋で何をするでもなくごろごろしていた。三郎は急いで時計を見た。23時40分。再度、息を呑む。あと20分で日付が変わってしまう。その前に、雷蔵とキスをしなくてはならない。雷蔵の家に来ていて良かった! と心から思った。
しかし大きな問題もあった。当の雷蔵は読書中なのだ。彼はベッドに腰掛けて、真剣な面持ちで文庫本を読んでいる。格好いい。いや、そんなことを考えている場合ではない。
本を読んでいる雷蔵の腕を掴んで引き寄せ、そのやわらかなくちびるを奪う……などということは妄想の中でしか出来ないことで、実際に彼の読書の邪魔をしたら物凄く怒られる。
雷蔵が今読んでいるのはミステリだ。彼の大好きなジャンルである。しかも、残ページから察するにだいぶ佳境のようだ。今ごろ丁度、探偵が事件の解明をしているところではないだろうか。いわゆるひとつの、「一番良いところ」というやつだ。これは尚更邪魔出来ない。しかも理由が「キスがしたい」である。三郎にとってはとても大切なことだが、それが雷蔵に通用するとは限らないのだ。
日付が変わるまでに本を読み終わってくれないだろうか、と思う。しかし時間はそろそろ23時45分になろうとしている。どうにも難しそうだ。三郎は奥歯を噛み締める。ああしかし、どうしても、どうしてもキスの日に雷蔵とキスがしたい!
三郎は、恐る恐る雷蔵の隣に腰をかけた。ベッドがほんの少し軋む。しかし雷蔵はこちらを見ようともしない。無視しているのではなく、気が付いていないのだ。現在、彼の頭にあるものは物語の中で繰り広げられている事件のみで、そこに余人の入り込む隙間は無い。三郎としてはそれが寂しいと感じることも多々なのだが、今日ばかりは好都合だ。
三郎はそろりと雷蔵の背後に回った。時計を見やる。23時47分。手段は選ぶまい。三郎は、雷蔵とキスをしなくてはならないのだ。だって、キスの日だから!
三郎は、そうっと、そうっと雷蔵の後頭部にキスをした。やわらかな髪が鼻をくすぐり、くしゃみが出そうになった。
唇を離し、雷蔵の頭を見詰めてしばらくそのままでいる。5秒経ち、10秒経ち、じわじわと恥ずかしくなってきた。
5月23日はキスの日だと浮かれ、しかし恋人は読書中で構ってくれないから、気付かれないように注意深く相手の頭にキスをする男・鉢屋三郎。
そんな風に要約すると、だいぶ終わっている。しかも、狙ったのが頭というところがまた情けない。くちびるという本丸に辿り着けないからといって、裏門を軽くノックしただけで引き返して良いのか。良くない男であるならば、もっと攻め気を持たなければならないのではないのか。
しかし力ずくでくちびるを奪う度胸は無いので(読書中でさえ! 読書中でさえなければ!)三郎はどきどきしながら雷蔵の耳に軽くキスをした。ひやりとした軟骨の感触が気持ち良い。
……やはり、雷蔵は気付かない。真剣な面持ちでページをめくるのみである。此処まで接近して、しかも皮膚に直接触れているのに彼の集中は揺るがないのである。
三郎は少し心配になってきた。こんなことで雷蔵は大丈夫なのだろうか。夏場になると、「しょっちゅう蚊に刺されるんだよね」とぼやく彼だが、その原因を今目の当たりにしている気がする。
今度は先程よりも長く、耳にキスをしてみた。やはり、雷蔵は無反応だ。ならば、と調子に乗って首筋に唇を押し当てた。ぱらり、とページをめくる音がする。
少し、気持ちが盛り上がってきた。何だろう、この、夜這いでもしているような気分は。背徳感に背筋がぞくぞくする。雷蔵に気付かれず何処まで出来るのか、試したくなった。
手を伸ばし、背中に触れてみる。無反応。背骨の形を指で確かめる。まだ大丈夫。布越しに、背にキスをする。余裕だ。
三郎はくちびるを舐めた。そして慎重に、とても慎重に雷蔵のTシャツの裾を掴んだ。
「ああ、面白かった……」
満ち足りた心持ちで、雷蔵は読んでいた本を閉じた。面白かった。文句なしに面白かった。犯人もトリックもまったく予想外だったし、解決に至るまでの道筋も素晴らしかった。これは三郎にも貸そう。そして優先的に読んで貰おう。誰かと語り合いたくて仕方が無い。
雷蔵は前方の壁にかかった時計を見た。0時10分。知らない間に日付が変わっていた。何時から読んでいたのかも、よく覚えていない。完全にのめり込んでいた。
ちょっと肩が凝ったかなーなんて思ったところで、雷蔵は何やら自分自身に違和感を覚えた。
何だろう、と視線を下に向けてみる。何故か、Tシャツが胸元まで捲り上がっていた。
「あ、やっと気付いた?」
耳元で笑い声が聞こえ、雷蔵の肩と心臓はびくんと跳ねた。驚きすぎて、声も出なかった。
「え……三郎? いや、え、何やってんの?」
見れば、三郎は雷蔵を後ろから抱きかかえる格好で、その手は何故か雷蔵のスウェットのウエスト部分にかかっていた。
えっ脱がされかけてる? 何だそれいつの間に?
雷蔵は訳が分からず首を捻って三郎を見た。彼はにこにこ笑ってこう言った。
「いっぱいキスしちゃった」
「え、キス? いつ? えっ?」
雷蔵には全くそのような覚えがない。小説の中で探偵が犯人を追い詰めている間に、一体何があったんだと思った。
「頭とか首とか背中とか二の腕とか肘とか。もうちょい際どい所を狙えるかなーって思ったんだけど、その前に読み終わっちゃったね」
「いや……いや、何やってんの……?」
「だって、雷蔵」
三郎は雷蔵の肩を掴み、自分の方に向かせた。そしてゆっくりと近づけて雷蔵の唇にキスをした。
「5月23日はキスの日だったんだよ!」
そう言って三郎は、とても幸福そうに微笑んだのだった。
twitterでむいろさんとやり取りしてる内に、このお話が出来ました。むいろさん有難う!! そしてキスの日(せめて翌日)に更新出来たら良かった……ですね……。
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