■香る夢■


 空が青い。雲は何処にも見当たらない。草の匂いと、花の甘い香りが鼻をくすぐった。

「今日の学級委員長委員会の活動はー」

 忍術学園構内にある花畑にて、三郎は一年生の庄左ヱ門と彦四郎の顔を順番に見た。ふたりとも真面目なので、この上なく真剣な面持ちで三郎の言葉に耳を傾けている。

「昼寝だ!」

 高々と宣言して、三郎は花の上にごろりと寝転んだ。

「ええー!?」

 庄左ヱ門と彦四郎が、声を合わせる。

「そ、そんなので良いんですかあ?」

 庄左ヱ門が、気持ちよさそうに花の上で横になる三郎を覗き込み、言った。三郎は、欠伸混じりに答える。

「良いよ良いよ。どうせ暇だし」

「だったら別に、学級委員が集まる必要もないんじゃあ……」

 遠慮がちな彦四郎の言葉を聞いて、三郎は「甘いな、彦四郎」と、にやりと笑った。

「一応活動してます、って体裁だけ整えとかないと、予算が下りないだろ」

「あ、まだ予算を狙ってたんだ……」

 小さな声で、庄左ヱ門が呟いた。三郎が学園長と共謀して無断で委員の予算を通し、会計委員長に大目玉を食らったことは記憶に新しい。しかしこの食えない男は、まだ何かを企てているらしい。

「良いから、ふたりとも寝ろ寝ろ」

 三郎は、自分の隣をぽんぽんと軽く叩いた。下級生ふたりは、いいのかなあ、とでも言いたそうにお互いの顔を見合わせたが、やがてふたりとも三郎の側で横になった。聞き分けの良い後輩たちに満足して、三郎は目を閉じた。 静寂が落ちてくる。眼前を横切る蝶の羽音が聞こえそうなほど、静かだった。

 こうやって花畑の中で目を閉じていると、甘い香りで身体の奥がいっぱいになってゆく。

 ああ、素晴らしい! 気が狂いそうだ!

 三郎はそう思った。美しい花々、あたたかな風、土の匂いと頬をくすぐる草の感触。なんてのどかな昼下がり。最高だ。虫唾が走る。

 そんな風にねじくれたことを考えるならば、花畑になど来なければいいのに、と三郎は己を嘲笑った。しかもわざわざ後輩を引き連れ、さも自分は花畑で寝るのが好きだという素振りを見せて、だ。自分でも何がしたいのか、よく分からない。

 黒一色だった瞼の裏に、赤い花が現われた。毒々しい色合いの花はゆっくりと開き、その陰から今度は白い花が現われた。その次は紫、次はまた赤だ。目を閉じる三郎の眼前に、次々と花が現われる。

 しばらくしたら、その花々の花弁がはらはらと散り、三郎の身体に降り積もった。散ると同時に、また新たに花が咲く。散る。咲く。背中に触れる土と自分との境界が、どんどん曖昧になっていく。視界が花で埋まる。食われる。花畑に食われてしまう。

 三郎は息を吸い込んだ。花の甘い香りが鼻腔と喉に張り付く。三郎の内側にも、花が入り込んでいく。土と草が、彼の四肢を捕らえて離さない。花はとどまることなく咲き乱れてゆく。

 不意に三郎は、雷蔵の名を呼びたくなった。

  雷蔵。雷蔵雷蔵雷蔵。

  そうすれば、このかぐわしい地獄からも逃れられるような気がした。

  雷蔵雷蔵雷蔵雷蔵雷蔵雷蔵雷蔵。



「三郎」

 雷蔵の名を七十五回呼んだところで、三郎を埋め尽くしている花を掻き分けて雷蔵が現われた。雷蔵、と声に出して言いたかったが、降り続ける花弁で口の中がいっぱいになって、かなわなかった。雷蔵は横たわる三郎を真上から見下ろす。彼は腕いっぱいに、色鮮やかな花たちを抱えていた。

「三郎。逃げずに、この美しさを呑み込んでご覧よ」

 雷蔵の丸い目が、こちらをじっと見ている。

 ああきみは残酷な人だ。顔色一つ変えず、そんなことを言ってのける。それがきみの恐ろしさであり、美しさでもある。

 三郎は熱に浮かされたような気分で、雷蔵の目を見返した。毒を飲み干したときの感覚に似ていた。

  雷蔵は手に持っていた花々を、三郎の上にばら撒いた。三郎の視界が再び花で埋まり、雷蔵の姿を隠していく。

  雷蔵。雷蔵。雷蔵雷蔵雷蔵。

 三郎は雷蔵の名を二百三回呼んだが、雷蔵はもう現われなかった。




「さてきみたち、何か夢を見たかい」

 花畑からの帰り道、三郎は目を覚ましたばかりの後輩ふたりに問うてみた。陽は落ちかけ、何もかもが橙に染まっていた。彦四郎が、はい、と勢いよく手を挙げた。

「試験を受ける夢を見ました」

 やけにきらきらとした目で言うので、三郎はつい笑ってしまった。

「そうか。出来はどうだった」

「完璧でした!」

「そうかそうか。……庄左ヱ門は?」

 首をひねって庄左ヱ門の方を向くと、彼は「えーと……」と少し考えてから、三郎の顔を見上げた。

「きり丸が、花売りのアルバイトをしている夢を見ました。でも商品の花を乱太郎が散らかしちゃって、それでもってしんべヱが全部食べちゃうんです。でもきり丸は全然怒らなくて、何でか僕が怒ってました」

「それはまた、何だか意味深だな」

 だけど庄左ヱ門らしい、と三郎は微笑ましい気持ちになった。

「鉢屋先輩は、夢を見ましたか?」

 無邪気な表情で問うてくる庄左ヱ門に、「わたし?」と聞き返してから、三郎は眼を細めてにやりとしてみせた。

「わたしは、美女をはべらせる夢を見たよ」

 そう言うと、一年生ふたりは顔をしかめて「ええー」「えええー」と口々に非難めいた声をあげた。そこから長屋に帰り着くまで、利口な後輩たちは、「おんなのひとは忍者の三禁のひとつなんですよ」ということを丁寧に教えてくれた。実に有意義なひとときだった。




「ただいまー」

「おかえり、三郎」

 部屋に戻ると、雷蔵が何故か一輪の花を手にして、それを眺めていた。花と雷蔵。先程見た夢を思い出して、三郎はどきりとした。

「……雷蔵、その花はどうしたんだ」

 雷蔵の傍らに腰を下ろし、尋ねてみる。そうしたら、屈託ない笑顔が返ってきた。

「ああ、これ? 中在家先輩から頂いたんだよ」

 そう言って、雷蔵は持っていた矢車菊を三郎に差し出した。三郎は目を細めた。中在家先輩が雷蔵に花を? 何故? 胸の中に、どろりとしたものが溢れてきた。

 ああ、だけどきみにその青い花はよく似合っている! 嫌になるほどに!

 三郎は、花を持っている雷蔵の手を掴んで、自分の口元に引き寄せた。そして大きく口を開けて、思い切り花に食らいつく。

「な……っ、三郎っ!?」

 驚く雷蔵をよそに、花を根元から噛みちぎる。咀嚼すると、青くて苦い味が口の中に広がった。

「ちょ……な、何してんの、三郎」

「うん、不味い」

「当たり前だよ!」

「でも、雷蔵だと思えば美味いよ」

「は?」

 雷蔵は、何が何だか分からない、というような顔をした。三郎はその表情を見て少し満足したので、花をごくりと呑み込んだ。