■そういう星の下 後編■
「そんな逃げなくても」
耳のすぐ近くで、雑渡のくぐもった声がした。首筋にぞくりと悪寒が走る。直後、後ろから手首をぐんと引かれた。均衡を失って転びそうになったところを、背後から抱きすくめられる。
「やあ、久し振り」
笑みを含んだ声で、雑渡は言う。伊作はそれどころではなかった。あっさりと、背後を取られてしまった。しかも、この至近距離。最悪中の最悪だ。背中を冷たい汗が滑る。伊作は腰元に回された、雑渡の手に視線を落とした。包帯は巻かれていない。意外と繊細そうな造作をした手であった。
伊作は頭の中で、この状況を打開する方法を必死に模索した。しかし力量差は余りにも歴然で、例えどんな奇策を用いようとも、この場を切り抜けるのは不可能と思われた。
「警戒しなくても、こんな往来でどうこうするつもりはない」
雑渡は囁いた。しかしその言葉とは裏腹に、背後からじりじりと圧迫感が迫って来る。雑渡と触れ合っている部分が焦げてしまいそうだ。伊作は唾を呑み込んだ。
「それにしても、きみがそんなにお行儀の悪い子だとは思わなかった。わたしに何か用かな」
「……いやあ、ええと……」
伊作は言い淀んだ。何とも答えられなかった。いや特に用はないんですけど、とはどうにも言いにくい状況だ。伊作がしどろもどろになっていると、背後で雑渡の笑う気配がした。
「……まあ、良い。今は別に、忍術学園と争う気はないし」
雑渡はゆっくりと、伊作から手を離した。それと同時に、伊作に絡みついていた威圧感も消え失せた。そこでようやく、伊作は雑渡を振り返ることが出来た。今まで、完全に気圧されてしまって雑渡を見ることが出来なかった。
「さあ、今日はもう帰りなさい」
雑渡は、包帯の隙間から覗く目を細めた。伊作は目を瞬かせた。あまりにもあっさりと解放されたので、拍子抜けしてしまう。
「ああ、わらじが駄目になってしまったんだな」
雑渡は伊作の足元に視線をやり、頷いた。
「それじゃあ、これを使うと良い」
そう言って雑渡は、懐から一足のわらじを取り出した。
「……何でそんなもん持ってるんですか、お頭」
黙って雑渡の側に控えていたタソガレドキ忍者が、呆れた様子で口を開いた。雑渡はちらりと部下の方を見やり、「さっき買って来たから」とこともなげに答える。
「お頭、こないだも買ってたじゃないですか」
「別に良いだろう、今日も買ったって」
「無駄遣いだ」
顔をしかめるタソガレドキ忍者に、雑渡はむっとしたように眉を寄せた。
「こうして役に立っているのだから、無駄じゃないだろう」
雑渡は言って、わらじを地面に置いた。伊作は戸惑い、わらじと雑渡を交互に見る。雑渡はそんな伊作に低く笑い声をあげた。それからタソガレドキ忍者の方を向き、「じゃ、帰るよ」と声をかけて歩き出す。タソガレドキ忍者は一瞬だけ伊作に一瞥をくれ、雑渡の後を足早に追いかけた。
「お頭、さっきのわらじ、私費で買いましたよね? 経費じゃ落ちませんよ」
「うるさいねお前は。さっきから言ってることが小さいんだよ」
「だってお頭はいつもいつも……」
タソガレドキの手練れたちの会話は、町の雑踏にたちまち溶け、聞こえなくなった。伊作はしばし呆然と、その場に立ち尽くした。すっかり毒気を抜かれてしまった。それも彼らの技のひとつなのか、それとも元々ああいう性格なのか、よく分からなかった。
(……結局、あのかんざしは誰にあげるんだろう)
心の中で呟き、伊作は雑渡の置いていった新品のわらじに足を入れた。
「ただいま、戻りましたー」
そう声をかけて、伊作は忍術学園の校門をくぐった。
「おかえりなさーい」
事務員の小松田が、愛想の良い笑顔で出迎える。小松田は不意に「あれっ?」と声をあげ、伊作の顔をまじまじと眺めた。
「な、何ですか?」
何処か汚れているだろうか、と伊作は手の甲で頬を擦った。小松田はにこにこ笑って、「ううん、何でもないよ」と首を横に振った。
気にはなったがとりあえず小松田と別れ、保健室に向かうことにした。買い求めた薬を、新野先生に届けなくてはいけない。そうしたらその途中で、同級の食満留三郎と出くわした。留三郎は自主練習の帰りらしく、手ぬぐいで汗を拭きながら歩いていた。
「やあ、留三郎」
声をかけると、留三郎は「よお、いさ……」と言いかけて、途中で言葉を切った。
「お前、なんちゅう格好だ、それ」
留三郎は、呆れ果てた様子で伊作を指さした。伊作は「え?」と自分の服装に目を落とした。先程、小松田にまじまじと凝視されたことを思い出す。やっぱり、何かあるのだろうか。しかし視界に入るのはいつも着ている彼の私服で、何がおかしいのか分からなかった。穴でも開いているだろうか、と袖や袴を確認するが異常は見られない。
「あっちで見て来いよ」
溜め息混じりに言って、留三郎は池を指さす。伊作は首をかしげながら池の端に向かい、ひょいと水面を覗き込んだ。
「うわっ!」
水鏡に映った自分の姿を見て、伊作は思わず大声を上げてしまった。
彼の髪には、珊瑚の玉かんざしが刺さっていた。雑渡が持っていた、あのかんざしだ。
「な……っ、い、いつの間に……っ?」
「お前さあ、変装取るときは、ちゃんと完璧に取れよ。中途半端に残ってると、恥ずかしいぞ」
溜め息混じりに言う留三郎に、伊作は「ち、違う違う!」と必死になって否定した。それならば何故かんざしなんて刺しているんだ、と突っ込まれて、伊作は目を白黒させた。雑渡の顔が脳裏に浮かぶ。それと存外美しかった彼の手。答えられるはずがない。
可憐なつくりの美しいかんざしが、水の中でゆらりと揺れた。
おしまい
|