■髪をほどく■
「ああ、今日も疲れた……。三郎、早くお風呂行こう」
授業を終えて部屋に戻った雷蔵は、早々に入浴の準備をすべく行李の中を探った。全身が土と汗にまみれていて、気持ちが悪い。早く湯を浴びてさっぱりしたかった。空いている手で頭巾を取り、髷をほどこうとしたら突然三郎が鋭い声を飛ばしてきた。
「ちょっと待って雷蔵!」
一体何事かと雷蔵はびくりと手を止めた。
「な……何?」
恐る恐る振り返ると、三郎はやけな真剣な顔を、こちらに寄せて来る。
「髪の毛、ほどきたい」
「へ?」
雷蔵は気の抜けた声を発した。真面目な顔をして、何を言い出すんだと思った。しかし三郎は、鬼気迫ると言っても過言ではない勢いで雷蔵に詰め寄ってくる。
「ほどきたい」
「は……はあ、どうぞ」
あまりの熱意に、雷蔵は三郎に背を向けた。三郎は手を伸ばし、雷蔵の髪を縛っている紐をほどいた。実技の授業ですっかり埃っぽくなった髪の毛が、ぱさりと雷蔵の肩に落ちた。
「何か……良い……!」
何故か感極まった様子で、三郎は身体を震わせた。雷蔵はすっかり呆れてしまった。三郎の言っている意味が、全く分からない。
「何を言ってるの、おまえは」
「よく分からないけれど、ぐっと来る」
「疲れてるなあ、三郎も」
雷蔵はため息をついた。それから改めて行李に向き直り、手ぬぐいを引っ張り出した。その背中に、三郎が抱きついてくる。
「三郎、暑いよ」
「雷蔵! もう一回!」
「ええ、もうほどいたじゃん」
「結い直してもう一回!」
「ええええー」
何でそんな面倒なこと、と雷蔵は思ったが、あまりにも三郎が必死で催促するので、仕方なくもう一度髷を結って三郎にほどかせてやった。三郎は嬉しそうに、先程よりも丁寧に紐を外した。それから髪の毛を両手で支え、少しずつ手の隙間から髪の毛を落としてゆく。
「良い……!」
三郎は、噛み締めるように言った。
「何が良いのか、全然分からないんだけど」
雷蔵は、髪の毛の中に手を突っ込んだ。ときおり、指に砂利が触れる。それも早く洗い流したいのだが、興に乗ってしまったらしい三郎が、それを許してくれなかった。
「雷蔵、もう一回」
三郎は目をきらきらさせて、雷蔵の手を両手で握った。よっぽど楽しかったらしい。雷蔵は顔をしかめた。
「またあ? それじゃあ、三郎が結ってよ。ぼくは風呂の準備をするから」
「分かってないな。雷蔵の結った髪を、おれがほどくのが良いんじゃないか」
「分かるわけないよ、そんなの」
「雷蔵、もう一回! これで最後にするから!」
「もー」
何なんだよ、と言いつつ、結局雷蔵は三度髪を結い直した。大雑把な彼はいい加減面倒になって、後れ毛があちこち飛び出すのも気にせず、荒々しく適当に髪の毛を紐でまとめた。
「はい、どうぞ」
そう言って、三郎の前で胡座をかく。すると三郎は、雷蔵の首筋に顔を寄せた。急に首元が温かくなったので、雷蔵はぎょっとして身じろぎした。
「ああ、駄目だよ雷蔵。じっとしていて」
後ろから、三郎がやんわりと肩をつかむ。髪の毛に顔を埋めるようにしながら三郎はゆっくりと、髷の紐を歯で捉えた。雷蔵は何故か、胸がどきどきするのを感じた。手で解かれたときは、何とも思わなかったのに。身体が震えてしまいそうで、自分の装束の袖口を力を込めて握り締める。
三郎はぐい、と歯で紐を引いた。思わず雷蔵は目を閉じた。髪のほどける気配がする。
「ああ、ぐっと来た」
大きな息を吐いて、三郎は達成感に満ちた声をあげた。
「そう、良かったね」
雷蔵は早口で言って、頭を一度振った。その拍子に腕を引かれ、至近距離で三郎と目が合う。
「雷蔵も、ぐっと来たかい」
目を細めて意地の悪い笑みを浮かべる三郎に、頬が熱くなった。次いで、どうにも目の前の男が憎らしく思えてきた。雷蔵は奥歯を噛み、三郎の頭を両手で掴んだ。不意を突かれた三郎が、目を見開く。
「うわっ、ちょ! 雷蔵!」
「この……鉢屋三郎め!」
雷蔵は言って、彼の髪の毛をめちゃくちゃにかき回した。三郎が、悲痛な叫び声を上げる。
「うわああっ、いやっ、雷蔵さんっ、駄目だってこれ乗っけてるだけだから! ねえちょっと! やめようよ!」
「うるさい!」
三郎の懇願を封殺して、雷蔵は更に髪の毛をかき混ぜた。三郎の悲鳴が一層大きくなる。しかしその表情は、何処か幸せそうであった。
お幸せに!
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