■ひとくちの幸運■


「雷蔵、雷蔵!」

 長屋の廊下を歩いていたら、後ろから呼び止められた。振り返ると、三郎がこちらに向かって走って来るのが目に入った。

「どうしたの、三郎。そんなに急いで」

「きみを探していたんだ」

「何か用事?」

「いいや、ただ会いたかったから」

「何だ、それ」

 雷蔵は呆れて少し笑った。何もないのに、三郎は嬉しそうににこにこしている。そんな彼を、ばかだなあと思うと同時にいとしいなあ、と思う。

「ところで雷蔵、手に持っているそれは何だい」

 三郎は、雷蔵が手に持っていた白い包みを指さした。雷蔵は「ああ、これ?」と包みを掲げて見せる。

「これは三年の浦風藤内に貰ったんだ。中身は大福らしいよ」

「浦風? 誰?」

「ほら、作法委員で、前髪のここがこう……こういう感じで跳ねてる子」

 雷蔵は自分の前髪を持ち上げて、外側に引っ張った。言葉で説明しようとすると難しい。三郎は腕を組んでしばし考え込み、くるりと背を向けて素早く顔をいじった。もう一度雷蔵の方に向き直ったときには、全く別の顔になっている。

「えーと、この顔?」

「それは富松作兵衛だよ」

 残念ながら、彼の変装は間違っていた。雷蔵は思わず吹き出してしまう。確かにあのふたりは似ているけれども。三郎は顔を伏せ、雷蔵の顔に戻してから首をかしげた。

「そうだっけ。人の顔を覚えるのは苦手なんだ」

「嘘ばっかり」

 苦笑とともに漏らした呟きがしっかり聞こえていただろうに、三郎は耳に入っていないふりをした。そしてあっけらかんとした調子で、話題を変える。

「それで、その浦風がどうしてきみに大福を?」

「彼はよく図書室に勉強に来るんで、顔見知りなんだ。この間、試験前にちょっと教科を見てあげたら、良い点数が取れたらしくてそれの御礼だって。律儀だよね」

「へえ、出世しそうだな、そいつ」

 そんな会話をしている内に雷蔵たちの部屋に着いたので、ふたりは揃って中に入った。

 雷蔵は床に腰を下ろし、早速包みを開けてみることにした。中から、雪玉のように真っ白な大福がふたつ、顔を出す。

「あ、ふたつあるよ、三郎。一緒に食べよう」

 三郎を振り返ってそう言うと、頭巾を解いていた彼は笑顔になった。

「うん、食べる」

 三郎は、雷蔵の隣に腰を下ろした。ふたりはそれぞれ、大福をひとつずつ手に取った。「いただきます!」と唱和して、大きな口で、柔らかな大福にかぶりつく。口の中に広がる甘さに、雷蔵はこの上ない幸福を感じた。

「……うっ」

 突然、三郎が低く呻いて口元に手を当てた。

「三郎?」

 三郎の異変に、雷蔵は身を乗り出した。すぐさま、毒? ということが脳裏をよぎる。しかし、同じく大福を口にした雷蔵はなんともない。それになぜ、浦風から手渡された大福に毒が仕込まれているのか。

「……何か噛んだ」

 三郎は顔をしかめて、舌を出した。そこには、鈍色に光る硬貨があった。毒ではなく、小銭だった。雷蔵はそれを見て、ほっと胸を撫で下ろした。

「ああなんだ、そういうことか。これ、『運試し大福』だったんだ。良かったな、三郎。それは幸運のあかしだよ」

「運試し大福?」

 首を傾げる三郎に、雷蔵は説明してやった。「運試し大福」はいま町で大流行している菓子だ。何百個かに一個の割合で小銭入りの大福があり、小銭を引き当てれば、その人には幸運が訪れるのだともっぱら評判なのである。

「ふうん」

 雷蔵の話を聞いて、三郎は面白くなさそうに口を尖らせた。

「あれ、苦い顔だね」

「思い切り噛んだから、歯が痛くなった。これの何処が幸運なんだ。むしろ不運だ」

 三郎は口の中に指を突っ込んで、歯を探った。よっぽど痛かったらしい。雷蔵は少し、彼が気の毒になった。

「まあまあ、これからきっと、良いことがあるよ」

 雷蔵の言葉に、三郎は「えー」と不満そうな声をあげたが、やがてこちらを見つめてにやりと笑った。

「雷蔵が口づけてくれたら、幸運って気がするな」

「へえ、そうかい」

 唐突にそんなことを言い出す三郎に対し、雷蔵はおざなりな口調で相槌を打った。すると三郎は、面白くなさそうに顔をしかめた。

「何だ、反応が薄いな」

「もっと食い付いて欲しかったかい」

「もっと照れて慌てて欲しかった。『なっ、何を言うんだい、三郎……!』みたいな」

「人の声色で、妙なことを言うのはやめてくれ」

「だけど昨日、おれが接吻しようと言ったときは、そんな風に可愛く恥じらってくれたじゃないか」

「二日連続で言うからだよ」

 ため息をついて、雷蔵は残りの大福を口の中に放り込んだ。三郎はやけに真面目な顔で腕を組む。

「そうか。じゃあ、忘れた頃にまた言うよ」

「はいはい……んっ?」

 口の中に違和感を覚えて、雷蔵は眉を寄せた。顎を動かすと、歯に何か固いものが当たった。明らかに異物が混じっている。雷蔵は口の中の大福だけを飲み込んで、異物を手の中に吐き出した。小銭である。ふたりは同時に、おおっと声をあげた。

「ふたつ連続なんてこと、あるんだね」

 雷蔵は、目を瞬かせて二枚の銅銭を交互に見た。何百の中にひとつしかないという幸運のあかしが、ふたつも続けて出てしまった。凄いと言うべきか、有り難みが薄れると言うべきか。三郎は目を細めて、大福の入っていた包みを指さした。

「もしや、浦風が仕込んだんじゃないか」

「まさか」

 そうだとしたら、浦風は和食職人の才能があるな、と雷蔵は思った。

「しかしこれは確かに、歯が痛くなるね」

 顎を押さえて雷蔵が言うと、三郎は何故か満足そうに「そうだろう」と大きく頷いた。それから何かを思い付いたような顔をして、雷蔵の方に身を乗り出してきた。

「雷蔵、口づけてやろうか」

 悪戯っぽく囁く三郎に、雷蔵は「何で?」と返す。三郎は雷蔵の手に自分の手を添えた。

「そうすれば幸運って感じがするだろう」

「いや……良いよ、ぼくは」

 何やら不穏な気配を感じて、雷蔵は首を横に振った。しかし三郎は笑みを深くして、身を乗り出してくる。

「遠慮せずに」

「だから、良いって」

「まあまあ」

「まあまあじゃな……」

 急に腕を強く引かれて、雷蔵は言葉を途中で切った。そのまま雷蔵の身体は床に倒されて、肩を押さえつけられた。

「えっ、三郎……っ、うわっ、うわあああっ!」





「お、おい! 何か今すごい絶叫が聞こえたけど、大丈夫か!」

 八左ヱ門は勢いよく雷蔵と三郎の部屋の障子を開けた。断末魔のような凄まじい叫びを耳にして、何か異変が起きたのかと飛んで来たのだった。

 部屋の中で、雷蔵が大の字に横たわっている。彼は死んだ魚のような目で、ぼんやりと天井を見上げていた。しかし何故か顔が赤い。一体何が起こったのだろう。 そしてその側で、三郎がにこにこして胡座をかいていた。状況がまったく読めなくて、八左ヱ門は首を傾げた。

「よう、ハチ。見ろよ、大福に小銭が入ってたんだ」

 三郎が無邪気な調子で、銅銭を八左ヱ門に差し出した。

「お、それ、もみじ堂の運試し大福だろ。すげえ、当たってんの初めて見た」

 おれ、何個食っても当たらないんだよなあーと続けて、八左ヱ門は三郎の持つ小銭をまじまじと見つめた。たっぷり眺めてから、此処に来た本来の目的を思い出す。

「いや、そうじゃなくて。三郎、さっきの騒ぎは何だ?」

「ああ、幸運を噛み締めていたんだ」

 三郎は愉快そうに笑った。先程の絶叫と幸運がどう繋がるのか、全くわけが分からない。

「雷蔵は? 放心してるけど」

 八左ヱ門は、ぴくりとも動かない雷蔵を指さした。すると三郎は、ますます楽しそうに笑い声をあげた。

「雷蔵も、幸運を噛み締めてるんだよ」

 三郎の言葉に、八左ヱ門は「は?」と眉をしかめた。謎は、深まるばかりであった。