■きみをひたす涙■


 消灯の鐘が鳴る少し前に、三郎と雷蔵の部屋を訪ねて来た者があった。彼らと同じ、三年生の生徒である。組は違うが、合同演習などで何回か一緒になったことがあるので、顔と名前くらいは三郎も知っていた。三郎は彼とあまり会話をしたことがないけれど、雷蔵とはそこそこ親しくしていた記憶がある。

 彼はどうにも疲れた様子で、うつむき気味にこう言った。

「郷里に帰ろうと思うんだ」

 隣で、雷蔵が息を呑む気配がした。三郎は、特に何の感慨も抱かなかった。ああそう、と思っただけだった。

 元から、お世辞にも成績が良いとは言えない生徒だった。最初の頃はそれでもどうにかついて来ていたようだったけれど、二年の頃から本格的に落ちこぼれ出し、三年に進級出来たのが奇跡だと、陰ではそう囁かれていた。

 忍びの修行は厳しい。ついて来られない者は、こうやって脱落していく。何も、彼に限った話ではない。才能が無いものが去るのは、至極当たり前のことだ。むしろ、もっと早く決断していれば良かったのに、とすら思う。自分の才能に見切りをつけることだって、大事な能力だ。

 しかしどうやら雷蔵は、そうは思わなかったらしい。悲しそうに顔をしかめ、「そんな……」と、言葉を詰まらせる。

「もう、先生にも届けを出して来たんだ。これからは、百姓として生きてゆくよ」

 そう言って彼は、あははと乾いた笑いをあげた。

「そんな……手裏剣だって火縄銃だってあんなに遅くまで練習して、最近は随分精度が上がってきたって、言ってたじゃないか……」

 絞り出すような雷蔵の言葉に同級生は、色のない表情で首をゆるゆると振る。雷蔵は続ける。

「兵法だって、しょっちゅう図書室で勉強していたし。松千代先生が、感心していらしたんだよ」

 もう一度、同級生は首を横に振る。

「それに、この間の試験だって凄く頑張って」

「だけど、それでも君たちには遠く及ばないもの」

 同級生の小さな声は、やけに大きく部屋に響いた。雷蔵は口を閉じた。三郎は何も言わなかった。端から、何を言うつもりもなかった。

 どれだけ頑張ったかなんて、何の意味もない。どれだけ結果を出したか、だ。雷蔵もそんなことは分かっているはずなのに、どうして無意味なことを言うのだろう。三郎には、全く理解が出来なかった。

「雷蔵にはすごくお世話になったのに、報いることが出来なくて申し訳ないのだけど」

 三郎は、雷蔵が何度か彼の自主練習に付き合ったり、授業の解説をしてやったりしていたのを知っていた。三郎は正直、それが嫌でたまらなかった。雷蔵の時間が勿体ない。彼は優しいから絶対に断らないけれど、その時間を自分のために使えば、雷蔵はもっと伸びるのに。見込みのない人間の為に、雷蔵の成長が妨げられるのは耐え難いものがあった。

 ……なんて言うと雷蔵と喧嘩になることは目に見えているので、三郎は何も言わなかったのだけれど。

「本当は、きみたちと一緒に、卒業、したかった……」

 彼はそう言って、言葉を詰まらせた。顔を伏せて肩を震わせる。どうやら泣いているらしい。三郎は欠伸が出そうになった。咳払いするふりをして、どうにかやり過ごす。

  ああ、こいつ早く帰らないかな。戸を開けっ放しにしてると、部屋の中が冷えるじゃないか。そういえば明日の朝飯は何だろう。

  三郎は既にこの脱落者への興味を失っていた。どんどん、関係のないことが頭の中を占めていく。

 隣で、雷蔵が彼と一緒になって泣いている。透明な涙をこぼし、彼の手を取って。三郎は、その光景を見ていられなかった。ああ、何できみが泣くんだ。そんな奴のために。ありえない。全く、ありえない。





 彼が去ってからも、雷蔵は泣き続けていた。床にうずくまり、子どものようにしゃくり上げる。

「……泣くなよ、雷蔵」

 そう声をかけても、返って来るのは押し殺した嗚咽のみだ。彼のこの優しさは、どうにかならないだろうかと、時々思う。勿論そういうところが雷蔵の美点なのだけど、いつか自らを破滅に追いやりそうで怖い。

「きみが泣いたって仕方が無いじゃないか。彼は遅かれ早かれこうなる運命だった。それは、きみだって分かっているんだろう?」

「分かっ……て……る、よ……」

「じゃあ、何故泣くんだ」

 雷蔵は背中を震わせるのみで、何も言わない。三郎はひとつ息を吐き出して、彼の側に腰を下ろした。

「分かっていても、感情が追いつかない?」

 そう問うてみると、「違……」と、微かな声が聞こえてきた。

「じゃあ、単なるもらい泣きか。それにしては、随分と長引いているけれど」

 それにも、雷蔵は首を横に振る。段々三郎は焦れてきた。雷蔵の考えていることが分からないと、どうにも胸の辺りがもやもやして苦しい。

「それじゃあ、どうして泣いているんだ。きみなあ、人が好いのも大概にしろよ」

「違うよ!」

 突然雷蔵が大声を出して顔をあげたので、三郎は驚いてしまった。真っ赤に目を腫らした雷蔵は、唇を震わせる。

「……何が違うんだ」

「ぼくは、人が好いんじゃない」

 波打つ声で、彼は言う。そしてまた涙を流す。

「……分かっていたんだ」

 雷蔵は、手の甲で目元を拭った。しかしすぐに、目の端に透明な雫が盛り上がってこぼれ落ちる。三郎は目を細めて、そんな彼を見つめた。

「彼は成績が良くなかった。忍者の素質も足りなかった。だから、彼が卒業出来ないだろうことは分かっていた」

「うん」

 三郎は静かに頷く。雷蔵は、自分の両手に視線を落とした。そこに何かが見えているかのように、じっと手のひらを見つめる。

「彼が郷里に帰ると言ったときも、本当は、とうとうこのときが来たか、としか思わなかった。残念だけど仕方ないよな、って。だけど彼が泣いたとき、ぼくの中で誰かが囁いたんだ。……お前も、一緒に泣くべきなんじゃないか、って」

 雷蔵は、両手の拳を握りしめる。肩が小刻みに震えていた。彼の膝に、ほたほたと涙が落ちて染みをつくる。

「そうしたら、泣く気なんて全く無かったのに、涙が出て来た」

 三郎は何かを言う代わりに、雷蔵の身体をそっと引き寄せて抱きしめた。すがりつくように、雷蔵が三郎の背中に手を回す。

「何だろう、この涙は。演出かな。場の雰囲気に合わせるための演出。彼は人生に対し重大な決断を下しているのに、ぼくは演出の涙を流すんだ。それがたまらなく嫌で腹立たしくて、涙が止まらない」

「……雷蔵」

 三郎は名前を呼んで、雷蔵の顔を見た。涙に浸った目が、こちらを見返してくる。彼の瞳を覆う水の膜が揺れて、三郎はそれを美しいと思った。

「雷蔵、それだって忍びになるためには、大切な素質だよ」

 三郎は、両手で彼に触れた。冷たい涙が三郎の手を濡らす。雷蔵がいとしくてたまらなかった。可愛い雷蔵。優しい雷蔵。おろかな雷蔵。  雷蔵はひとつ瞬きをした。水膜が弾け、雫となって頬に流れてゆく。

「……うん、そうだね」

「何も、悪いことじゃない」

 小さい子どもに言い聞かせるように、三郎は言葉を噛み締めた。雷蔵は涙を溢れさせながら、何度も頷く。

「そうかもしれない。うん、そうだ。そうだね」

「だからもう、泣くのはやめろよ」

「だけど、だけど、三郎」

 雷蔵が、力を込めて三郎の装束を掴んだ。

「ぼくはそれが、酷く悲しい」

 雷蔵は訴えるような目が、こちらを見る。揺れる涙の奥で燃える黒。その瞳の深さに、三郎は息を呑んだ。

 ああ、

 おれは、おれには、

 この目を写し取ることが出来るのだろうか。