■ハッピーライフジェネレーター■


 結局三郎に手を引かれ入店した服屋で、雷蔵は何処に視線を向けて良いか分からず固まっていた。三郎は慣れた手つきで、あれこれ洋服を物色してゆく。雷蔵はその後ろで棒立ちであった。ベース音がやたらと強調された音楽が耳に突き刺さり、落ち着かないことこの上なかった。

「じゃあ、雷蔵。これとこれ、着てみなよ」

 三郎はにこやかに、何やら筆舌に尽くしがたいプリントの入った長袖のTシャツと、よく分からない上っ張りを差し出してきた。どちらも、雷蔵が今までまったく着たことのない類の服だ。それらがおしゃれなのは分かる。分かるけれども。

「着てみなよ?」

 服をまじまじと見詰め、思わず雷蔵は三郎の言ったことを復唱した。着てみなよ、って何だ。ぼくが? ぼくが、着るのか?

「え、うん。おれ何か変なこと言った?」

「どうやって?」

「ど、どうやって?」

 今度は、三郎が雷蔵の言うことを繰り返す番だった。少しの沈黙の後、彼は視線を上に向けて何やら考え出した。雷蔵の言葉の意味を探っているようだった。しかし答えは見つからなかったらしく、顔を正面に戻して首を傾げた。

「いや、普通に試着を……」

「試着ってお前」

 雷蔵は、三郎が言い終わらない内に言葉をかぶせた。試着。ジーンズの裾直し以外で試着室になど入ったことがない雷蔵にとって、それは恐ろしい響きだった。

「な、何? 試着がどうかした?」

「……そんな難問を軽い口調でお前……」

「何処が難問なんだよ! あ、すいません、これ試着したいんですけど」

 三郎は、側を通りかかった長身の店員に声をかけた。店員は笑顔でてきぱきと洋服からハンガーを外して雷蔵の手に戻すと、店の奥にある試着室を手で指し示した。

「はい、こちらの試着室をご利用下さい」

 そう言って、店員はすたすたと去ってゆく。三郎は「ほら、これでOKだから」と言って、安心させるように雷蔵の肩をぽんぽんと叩いた。そんなことをされても、雷蔵の心は全く落ち着かなかった。それどころか、どんどん崖に追い詰められている気分だ。

「試着したら買わないといけないんじゃ……」

 震えながら呟いたら、三郎の笑い声が返ってきた。

「そんなこと無いよ。気に入らなかったら、買わなくたって良いんだから」

「…………」

 そう言われても尚、雷蔵は服を握り締めたまま動けずにいた。三郎が、再度肩を叩いて促してくる。

「ほら、試着室行っておいでよ」

「…………」

 雷蔵は思わず、三郎の服の裾を掴んだ。三郎が「ちょっ」と動揺をあらわにする。

「え、何それ雷蔵可愛い」

「……どうやって着るの、これ」

「だから、普通に着れば良いんだって」

「上に着るやつ、ボタンは全部留めたら良いの、駄目なの」

「あ、そういうことか。全部留めちゃったら中のが見えないから、適当に開けたら良いよ」

「適当ってどんくらい」

「う、うーん……。とりあえず着てみなって」

「…………」

 雷蔵は、三郎の服を掴み直した。

「何それ可愛い」

「試着室の前で待ってろよ」

「うん、分かったよ」

 三郎は口の端をむずむずさせている。笑うのを堪えているのだ。何が可笑しいんだ、と臑でも蹴飛ばしてやりたくなった。こちらは、緊張と不安で倒れそうだと言うのに。

「絶対待ってろよ。試着室出たら誰もいない、なんてことがあったら一生口きかないからな」

「そんなことしないから、早く着替えておいで、ってば」

 三郎にせき立てられて、渋々、雷蔵は試着室に入った。カーテンが閉まると、一層不安になった。

  大きな鏡にうつる自分を見る。驚くほど、顔が強張っていた。店に立っているマネキンでももっと人間らしい表情をしているぞ、と思うくらいだった。それを確認した瞬間、無性に腹が立ってきた。

 ぼくは別に服なんて欲しくなかったのに、どうしてこんな目に遭わなければならないんだ。ぼくが良いと言っているのだから、別にジャージでもユニクロのTシャツだって良いじゃないか。こんな服、ぼくに似合うはずがない。こういうおしゃれな服はおしゃれな人のために作られているのであって、ぼくみたいなのが着たってどうしようもないのだ。

 そんな風にむかむかした気持ちを抱える雷蔵だったが、このまま着替えずに試着室を出る勇気は無かった。店員に試着すると言ってしまった以上、何があっても試着しなくてはならないのだと思い込んでいた。でなければ、きっと怒られる。

 雷蔵は完全にアウェー気分のまま、首もとが緩みかけた自前のシャツを脱いで、三郎が選んだシャツを身につけた。恐ろしいので、値札は見ないことにする。それから、カーテンの向こうへと声をかけた。

「……三郎、ちゃんといる?」

「いるいる。大丈夫だって」

 すぐに返事が返ってきたので、ほっとした。次いで、上っ張りを羽織ってみる。そして、鏡と向き合った。

 ……如何ともし難い。

 というのが、素直な感想だった。何だこれ。これは似合っているというのだろうか。自分では全く分からない。物凄くコメントがしづらい。何よりも、普段ジャージやユニクロばかり着ているので、目が慣れない。驚異的なまでにしっくりこない。合成写真でも見ている気分だった。

「雷蔵、着替えた?」

「…………」

 外から三郎の声がするが、雷蔵は呆然と鏡の前でたたずんだまま、返事をすることが出来なかった。

「おーい、雷蔵? 開けて良い?」

 再度三郎から呼びかけられ、はっと我に返る。そうか。自分で判断がつかないのなら、彼に見て貰えば良いのだ。

「……い、良いけども」

 そう答えながらも、世間一般の感覚に照らし合わせた場合、こういうのを「物凄く間抜けな格好」と呼ぶのだったらどうしよう……と心細くなった。しかし無情にも、三郎は無遠慮に試着室のカーテンを開けてしまった。その瞬間、雷蔵は身をすくませた。

 三郎は、所在なさげにもじもじする雷蔵を見詰める。

「あー、うーん……」

 微妙な呟きを漏らす三郎に、雷蔵は耳の後ろがかっと熱くなった。この格好は駄目なのだ、と直感する。恥ずかしい。死にそうだ。しかし、この服を選んだのは三郎である。この上なく理不尽な思いに駆られ、雷蔵は三郎の両腕を、めいっぱいの恨みを込めて握り締めた。

「お前が着ろって言ったからお前が着ろって言ったからお前が着ろって言ったから!」

「いや、何も言ってないじゃん! 似合ってるって! 何かストールとか足そうかな、って思っ……あっ、ちょっと雷蔵!」

 三郎の言葉を最後まで聞かず、雷蔵は試着室のカーテンを思い切り閉めた。










「雷蔵、店出るの早いよ。結局何も買ってないし」

 早足で横断歩道を渡る雷蔵の後を、三郎が小走りでついて来る。

「もう良い。ぼくは頑張ったからもう良い」

「似合ってたのに」

「絶対嘘だ」

「嘘じゃないって」

「…………」

「……嫌がってたのに、無理矢理連れてったことは謝るよ」

 三郎は雷蔵の隣に並び、こちらの顔を覗き込んできた。雷蔵は、すいと視線をそらす。その頑なさに、三郎は泣きそうな表情になった。

「雷蔵、ごめんってば。機嫌直してよ」

「…………」

「あ、ほら、雷蔵。本屋行く? 本屋。伊坂幸太郎の新刊出てるんだっけ?」

 三郎は慌てて、書店の看板を指さした。雷蔵は横目で、三郎と看板を交互に見た。三郎は必死で笑顔を作っていた。雷蔵はまだ腹を立てていたが、伊坂幸太郎の新刊には抗えなかった。

「……行く」

 小さく頷くと、三郎の頬がほっと緩んだ。それから彼は「でも」と言葉を続ける。

「試着に対して異常にテンパる雷蔵は可愛かったなあ」

 雷蔵は手を振り上げて、三郎の後頭部を思い切り叩いた。すぱん、という物凄く良い音が交差点に響き渡り、前を歩いていた大学生くらいのカップルが何事かという面持ちでこちらを振り返った。