■花じゅうたん■


 廊下を歩いていたら、ありえない色彩に出くわして、雷蔵は足を止めた。

  赤、白、黄、青、紫に桃色。よく見るとそれは、大輪の花だった。廊下の一部が、色とりどりの花で埋め尽くされている。甘い香りが、そこらじゅうに充満していて、思わず彼は手で鼻を覆った。

 何だこれは、と雷蔵は瞬きをした。まるで、花の絨毯のようであった。美しくも異様な光景に、しばし目を奪われた。

 しかし一体誰がこんなことを、と首を巡らせてみると、廊下の隅で泣きそうな顔をして花を拾い集める、乱太郎の姿を見付けた。

「乱太郎?」

 声をかけると、彼は「雷蔵先輩!」と、縋るような目つきでこちらを見た。

「これは一体、どうしたんだい」

「それが……」

 乱太郎は言葉を切り、重たい息を吐き出した。

「便所の落とし紙を持って歩いていたら何処からともなくバレーボールが飛んで来て、それがぼくに命中して、その拍子に落とした紙で足を滑らせて、花籠を持って歩いてらっしゃった中在家先輩とぶつかってしまったんです……」

「そ、それはまた、災難だったね」

 不運な後輩の悲惨さに、雷蔵は苦笑した。流石保健委員、と言いそうになるのをぐっとこらえる。

 では中在家は何処だろうと探してみると、彼は少し離れたところで、黙々と花を拾い集めていた。彼の足下には、引っ繰り返った大きな籠が転がっている。中在家は、ちらりとこちらを見た。雷蔵が会釈をすると、小さく頷きが返って来た。

 乱太郎は、慌てて花を拾う作業に戻った。時折、中在家の姿をちらちらを見る。怒ってないかな、怒られないかな、とびくびくしているようだった。

「乱太郎、ぼくも手伝うよ」

 軽く笑ってそう言うと、乱太郎は安心したようだった。無口で無愛想な中在家とふたりきりで作業をするのは、さぞ気まずかったことだろう。中在家先輩も誤解されやすいからなあ……と、雷蔵は心の中でこっそりと呟いた。

「それにしても先輩、こんなに沢山の花をどうしたんですか?」

 雷蔵は両手に抱えた花を籠に戻し、中在家に尋ねた。こう言ってはなんだが、学園一無口で硬派な最上級生と大輪の花という組み合わせは、何処か違和感がある。

  無口な先輩は口を薄く開き、吐息と間違えるような小声で何かを囁いた。雷蔵は意識を集中させて、どうにかそれを聞き取る。

「ああ、なるほど。それの準備なんですね」

 納得して、雷蔵は頷いた。

「……中在家先輩、何ておっしゃったんですか?」

 乱太郎が、雷蔵の耳元でそう尋ねた。雷蔵は笑って、通訳をする。

「明日から、実習で花屋に変装するんだって。それの商品らしいよ」

 それを聞いた乱太郎は、悲壮な声で「ひゃあ」と悲鳴をあげた。

「そんな大事なものを引っ繰り返してしまって、中在家先輩、ごめんなさい!」

 乱太郎は風が起りそうな勢いで、中在家に頭を下げた。中在家は一瞬困った顔をし、それから口の端をつり上げて、にいっと笑った。

  恐らく中在家としては、怒っていないことを示すために笑ってみせたのだろうが、その笑顔はあまりに不気味で、場の空気は凍り付いた。委員会で中在家と顔を合わせる機会の多い雷蔵でさえ、彼の笑顔は未だに見慣れない。乱太郎など、硬直してしまっている。

「だ、大丈夫だよ乱太郎。中在家先輩は、怒ってらっしゃらないよ」

 後輩を安心させるように、雷蔵は優しく乱太郎の肩を叩いた。乱太郎はほんの少し身体の緊張を緩めて、「ほ、ほんとうですか?」と中在家を仰ぎ見た。笑みを引っ込め、いつもの無表情に戻った中在家が、静かに深く頷いた。乱太郎は「よかった」と呟き、ほっとした顔をした。



 雷蔵も加わったことで作業効率はぐんと上がり、ほどなくして全ての花を拾い終えることが出来た。

 最後の花を籠に戻した乱太郎が、中在家と雷蔵に向かって頭を下げた。

「……あの、本当にすみませんでした。それと雷蔵先輩、手伝って下さってありがとうございました。それじゃ、失礼します!」

 ほぼ一息にそう言って、乱太郎は走って行ってしまった。

「あ、乱太郎!」

 そんなに慌てなくても、と声をかけようとしたが、乱太郎の姿はたちまち見えなくなってしまった。また何処かで転んでなければいいけれど、と雷蔵は少し心配になった。

 廊下には、雷蔵と中在家が残された。さあ自分もお暇しよう、と中在家の方を振り返ると、彼の口が微かに動いた。ようく耳をこらすと、

「……有難う、不破」

 と聞こえた。雷蔵は何だか気恥ずかしくなった。

「い、いえ、そんな……」

 口ごもっていると、中在家が花籠の中から青い矢車菊を一本引き抜き、雷蔵に差し出した。

「えっ?」

 雷蔵は驚いて、目を丸くした。

 えっ、花? ぼくに? えええ? お、お礼ってこと? それにしても、男が男に花って……! いや、ちょ、えっ、ええ、ええええ?

 頭の中が、疑問符でいっぱいになる。戸惑いと羞恥が怒濤の如く押し寄せてきて、雷蔵は顔を赤くした。

「い、いや……あの、せ、先輩」

 どうしてよいのか分からず右往左往していると、中在家が青い花をずい、と雷蔵の眼前に近づけてくる。やたらと真剣な彼の表情に、雷蔵の羞恥は一層は煽られる。

 受け取るべきか、受け取らざるべきか。

 雷蔵の頭の中で、ふたつの選択肢がぐるぐると回転した。

 別にこの花に深い意味はないんだ。中在家先輩は単純に、花を拾ったのと通訳をしたお礼に、と思っているだけなんだ。……と分かっていても、受け取りにくい。

  この人は、男が男に花を贈ることは一般的でないと、分かっているんだろうか。いや、分かっていないのだろうな。雷蔵は、唇を噛んだ。

「……っ、あ、ありがとうございます……」

 上級生の贈り物を断るわけにもいかず、結局雷蔵は矢車菊を受け取った。すると中在家は満足したようにひとつ頷き、花籠をひょいとかかえて雷蔵の横を通り過ぎた。

 中在家の後ろ姿が見えなくなってから、雷蔵は大きく息を吐き出してその場にしゃがみ込んだ。手の中の花に、視線を落とす。目の覚めるような青の、美しい矢車菊。

「いや、確かに綺麗だけどさ……」

 雷蔵の口から、独白がこぼれる。

  確かに美しいけれど、何かがおかしい。間違っている。誰かその辺のことを、中在家先輩に教えてあげてくれないかな……。

 そんなことを考えながら、立ち上がる。雷蔵は手で顔をあおぎ、火照った頬を冷ましながら部屋に戻った。