■ブルーブルー 後編■


「あはは、何かドキドキするねこれ」

 肩を揺らして彼が笑う。僕も相当ドキドキしていたけれど、彼のそれとは意味合いがだいぶ違うと思う。なるべく彼の身体に接触しないようにと努めていたら、腕が攣りそうになった。身長が同じくらいだから、彼の胸元を覗き込むのにも首が辛い。青い頭がちらちら目に刺さって集中出来ないし周囲からは不審げな視線を注がれているしで、額に嫌な汗が浮かんできた。

「……はい、出来たよ」

 ようやくネクタイを結び終えたぼくは、彼から身体を離した。彼はネクタイに視線を落とし、ぷっと噴き出して楽しそうに笑い出した。

「ほんとうに下手だね、きみ!」

 無遠慮に笑われて、ぼくは頬が熱くなるのを感じた。

「だから、そう言ったじゃないか」

「ううん、良いよ。どうもありがとう」

 よしこれでぼくの役目は終わったと身体の向きを変えたら、がっしと腕を掴まれた。

「ねえきみ、名前は?」

 ぼくはそろそろ解放して欲しかったけれど、無視することも出来ないので仕方なしに答えた。

「不破雷蔵、だけど」

「雷蔵」

 彼は下の名前を復唱し、目を丸くした。それから、ものすごく嬉しそうに笑った。ぼくはそのとき初めて、彼の顔をきちんと視界に収めた。子どもみたいな笑顔だった。もっと細かく言うと、宝物でも見つけた子どものような、無邪気であどけない笑顔だ。

  その表情を見て、もしかしてこいつはそんなに悪い人間ではないのかもしれない、という気になった。少なくとも、こちらに危害を加えるつもりはなさそうだ。だからぼくは思い切って、「きみの名前は?」と、青い彼に尋ねてみた。すると彼は、一層深く微笑んでこう言った。

「おれは、鉢屋三郎」

「三郎」

 ぼくも何故か、彼の下の名前を繰り返した。というか、勝手に口が動いていた。どうして彼の名前がこぼれ落ちたのだろうと頭を捻りつつ、ぼくは続けた。

「ええと……あの、鉢屋くん。そろそろクラス分けを見に行かないと」

「鉢屋くん?」

 腑に落ちないという顔で、鉢屋三郎は眉を寄せた。

「え、鉢屋くん、だよね? さっき、そう言わなかった?」

 もしかして聞き間違いだっただろうか、とぼくは少し焦った。すると彼は、「三郎」と、やけにはきはきとした口調で言った。

「うん?」

「三郎って言ってみて」

「……三郎?」

「うん、なあに、雷蔵」

 三郎は微笑んだ。やっぱり子どものような笑みだった。

「だからさ、早くクラス分けを見に行こうよ」

 ぼくはつい、普通に友達と話すような気安い口調で言ってしまった。自分でもびっくりした。まだ会ったばかりなのに。それどころかついさっきまで、彼のことを酷く警戒していたはずなのに。

「そうだね、行こうか」

 三郎は頷き、ぼくたちは並んで歩き出した。いつの間にか、彼のことが怖くなくなっている自分に気付く。彼の髪の毛が青いことも、そんな彼と一緒にいると注目を浴びることも、あまり気にならない。何故かは分からないが、急にそうなってしまった。鉢屋三郎、という名前を知ってからだ。その瞬間、頭の中が全部入れ替わってしまったような。そんなことってあるのだろうか。

「雷蔵と同じクラスだと良いなー」

 三郎も、まあ彼はずっとそうだけれど、まるで前からぼくたちが友達だったかのような言い方をする。だけどそんな口調も、ぼくはすんなり呑み込むことが出来た。

「……ねえ、三郎」

「なあに、雷蔵」

「ぼくたち、何処かで会ったことあったっけ?」

「さっききみが、会ったことないって言ったばかりじゃないか」

 三郎は声をあげて笑った。ぼくは目をぱちぱちさせて彼を見る。言ったっけ。言ったな、そういえば。

「あ、此処みたいだよ」

 三郎が立ち止まり、前方を指さした。掲示板に、クラス分けの大きな紙が貼り出してある。周囲は新入生たちで混雑していて、そこだけ熱気がこもっていた。ぼくたちは人混みの隙間を縫って、掲示板に近付いた。

「雷蔵、おれたち同じクラスだ」

 弾んだ声で言い、三郎はぼくの肩を掴んで揺すった。首を伸ばして目を凝らす。見付けた。一年三組だ。鉢屋三郎、不破雷蔵。ぼくたちの名前が上下に並んでいた。

「本当だね」

 三郎の方を向くと、彼は首を傾けて微笑んだ。ぼくもつられて、同じ格好で笑う。もう一度クラス分けの紙に顔を戻し、今度は竹谷の名前を探した。すると彼も同じクラスだったので、ぼくはほっとした。新しいクラスに、知っている奴がいると心強い。

 ……そういえば、竹谷は何処に行ったのだろう。きょろきょろと辺りを見回してみるが、近くにはいないようだった。

「じゃ、おれは帰るね」

 ぼくが竹谷を捜していると、三郎がそんなことを言って踵を返した。ぼくは目を見開く。

「え……っ、帰るの? だってまだこれから、教室行って色々説明聞いたりしないと駄目なんじゃ」

「明日はちゃんと来るよ。今日はこれから、やることがあるから」

「え、でも」

「また明日、雷蔵」

 呆気にとられているぼくに手を振り、三郎は本当に行ってしまった。

 入学初日なのに早退とは。ぼくはぽかんとして、遠ざかる青い後ろ頭を見つめた。鉢屋三郎。新しい友達。何だか、すごい男に出会ってしまった気がする。

「あ、いたいた、雷蔵!」

 少し離れたところから声をかけられ、ぼんやりしていたぼくは我に返った。声のした方に顔を向けると、竹谷がこちらに走って来るのが見えた。途端に、竹谷がぼくひとりを置いて逃げたことを思い出す。

「竹谷! おまえ、今まで何処に行ってたんだよ」

 声に怒気を滲ませてそう言うと、彼は「わ、悪い悪い!」と顔の前で申し訳なさそうに手を合わせた。

「別に雷蔵を置き去りにして逃げようと思ったわけじゃなく、あっちにねこがいたもんで、つい……。それでさっきまで、遊んでもらってたんだよ」

 竹谷はとかく動物が大好きで、動物を見れば目の前のことを全部放り出してすっ飛んでいってしまう性質だ。なので、ぼくはそれが嘘だとは思わなかった。というか、竹谷は嘘をつかない男だ。しょうがないなあ、と僕はため息をつく。それに、遊んでもらってたという表現が何だか微笑ましくて、怒る気にならなかった。

「ところで、あの青い奴は?」

 竹谷が三郎を捜してきょろきょろするので、「帰ったよ」と短く答えた。

「帰ったあ?」

 声を裏返し、目を見開いて竹谷が驚く。

「青い奴、鉢屋三郎って名前だったよ」

「へえ」

「ちなみに、ぼくもお前もあいつも、同じクラスだよ」

「マジかよ」

「でも、そんな悪い奴でもなかったよ。見た目どおり、変わってはいたけど」

「ほんとかあ?」

 信じられない、というふうに竹谷が顔をしかめる。そんな彼を見てぼくは笑った。明日、きちんと三郎に竹谷を紹介しよう。きっと、彼も三郎と仲良くなれるはずだ。





 ……翌日。昨日の宣言通り、三郎はちゃんと学校に来た。

  ただし、彼はもう青くなかった。

 髪の毛が、黄土色がかった茶色になっている。肩まであった髪の毛も短く切って、襟足も揉み上げもすっきりしていてまるで別人みたいだ。

「えっ、なっ、え、ええええ!」

 教室に入ればあの青い頭が視界に飛び込んでくるのだと思っていたぼくは、まったく違う様子になっていた三郎に大層驚いた。三郎は、してやったり、というふうに笑っていた。

「あはは、びっくりした?」

 ぼくは、何度も首を縦に振った。びっくりした。びっくりたなんてもんじゃない。だって一日で印象が変わりすぎだ。あんなに青かったのに。真っ青だったのに。コバルトなんとかガエルだったのに。

「び、びっくりしたよ! 一瞬、誰かと思った……!」

「え? あれ? こいつもしかして、昨日の青い奴?」

 雷蔵と一緒にいた竹谷が、声を大きくして三郎を指さす。

「そうそう、昨日青かった奴だよ」

 三郎は頬に人差し指を当てて笑った。竹谷が呆然と口を開ける。

「すっげー大胆なイメチェン……ていうかそれ、雷蔵みたいな頭だな」

 竹谷は、ぼくと三郎を交互に見た。僕は思わず、自分の頭に手をやった。言われてみたら、ぼくの髪型と似ているような気もする。

「……あ、なあなあ、お前らちょっとそこ並んでみて」

 何かを思い付いたように、竹谷はぼくの背中を押して三郎の隣に立たせた。それから、うーんと唸って顎に手を当てる。

「こうして見たら、何かお前らって、似てんな」

「そう?」

「そう?」

 竹谷の言葉に、ぼくと三郎の声が重なった。ぼくは、いや似てないんじゃない? という気持ちを込めて言ったのだが、三郎の声音は何処か嬉しそうだった。

「うん。髪型一緒だからそう思うのかもしんないけど、似てる」

「そうかなあ!」

「そうかなあ……?」

 ふたたび、ぼくと三郎は同時に同じことを言った。竹谷が噴き出す。そしてやっぱり、三郎は何だか満足げであった。

 ぼくは三郎を見た。三郎も、ぼくを見た。彼の丸い目が、リズミカルに瞬く。そんなに似ているだろうか。自分では、よく分からない。

 すっきりさっぱりした三郎。ぼくに似ていると言われて、喜んでいる三郎。ということは、彼はわざとぼくと同じような髪型にしてきたのだろうか。あの奇抜な青い髪から、何の個性もない凡人まっしぐらなぼくの髪型に。何で? 何のために?

 どれだけ考えても、ぼくには分からなかった。とりあえず、鉢屋三郎はよく分からない人間だ、ということだけは分かった。





 ……かくしてぼくの高校生活は、不可解で鮮烈で衝撃的な出会いと共に始まったのである。