■うつくしい飴玉■
「あ……あの、綾部先、輩」
「なあに、藤内」
「あの……」
「うん」
「近い、んですけど……!」
藤内は、声を絞り出すようにしてそう言った。すると綾部は、ほんの少し首を傾げた。何を言われているか分からない、という表情だった。
藤内の顔から一寸も離れていない距離に、綾部の顔があった。先程から、綾部の長い髪に頬をくすぐられ、顔がむずむずして仕方なかった。しかし少しでも身じろぎすれば、たちまち衝突してしまいそうだった。
ここは作法室。今は作法委員会の真っ最中だ。遡ること少し前、藤内が生首フィギュアの整理をしていたところ、突然眼前に綾部の顔が現われたのだった。ぎょっとした藤内は一歩後ろに退がった。すると綾部も一歩距離をつめてくる。そんなことを繰り返している内に、藤内は壁際に追い詰められてしまった。
意味が分からない。この先輩のやることは大抵意味が分からないけれど、今日は殊更分からない。全く瞬きをしない、綾部の大きな目が怖い。突き刺さりそうな長い睫毛が怖い。
「あ、綾部先輩……! な、何なんですか、一体」
藤内は、震える声で言った。向こうから、作法委員長の立花仙蔵が一年生の兵太夫と伝七に、生首フィギュアの取り扱いについて説明している声が聞こえる。藤内は、ひそかに仙蔵が助けに入ってくれることを期待したが、彼はこちらには目もくれない。綾部の奇行はいつものことなので、少々のことは「またあいつか」で流されてしまう。それが作法委員会だ。
藤内は、もう進むことも退くことも出来ない。一体どうしろと言うんだ。そう思っていたら、綾部が口を開いた。
「藤内は」
そこまで言って綾部は顔をずらして舌を出し、何を思ったのか藤内の右瞼をれろりと舐めた。
「……っ!?」
突然やわらかくて温かい感触が瞼を這い、藤内は全身を硬直させた。あまりの衝撃に、悲鳴すら出なかった。依然、綾部の顔は目の前にある。整った、美しい顔。至近距離で見ると震えが走るほどに。しかし麗しい上級生は、致命的に変人であった。
「味噌汁の具は何が好き?」
綾部から突然投げかけられた質問に、
「……っ、へ、あ?」
と、藤内は間の抜けた声をあげた。
「な、何で今、そんなこと……」
その言葉を遮るように、綾部が再び藤内の右瞼を舐め上げた。耳の奥と足の裏ががぞくぞくした。
「ひ……っ! だ、大根! 大根が好きです!」
泣きそうになりながら、藤内は答えた。すると綾部は両手で藤内の顔を挟み、再び藤内の目を注視する。
「藤内は目が黒いね」
「え……、み、味噌汁の話は……?」
「そういえば昨日、藤内の目みたいな色の飴を食べた」
綾部の話はいつだって全く脈絡がなく、何処から何が飛んでくるか分からない。その辺は、これまでも委員会活動を通して藤内もよく知っているので、味噌汁の話は追求しないことにした。
「は、はあ。そうですか」
「甘くて美味しかったよ」
「はあ」
ぎこちなく頷きを返すと、綾部の目が初めて瞬きをした。その瞳の奥に好奇の光が灯っているように見えて、藤内は身震いした。激しく嫌な予感がする。
綾部が口を開いた。赤い唇の隙間から、濡れた舌が覗く。藤内は肩を強張らせた。
「ちょ、ちょっと待って綾部先輩! 甘くないです! 飴じゃないですから! ぼくの目は甘くないです!」
顔をそむけようにも、綾部の手はがっちりと藤内の頬と頭を掴んでいる。細い見た目からは想像もつかないくらい、その力は強い。綾部の唇が、舌が、近付いてくる。藤内の目に向かってやって来る。目を守らなければと思うのに、藤内は目を閉じることが出来なかった。恐ろしい。恐ろしいほどに美しい綾部の舌が、来る。
「う、うわ、ああああっ!」
藤内は、声を限りに叫んだ。直後、ふっと目の前が明るくなる。
「喜八郎……。何をやってるんだ、お前は」
頭上から、呆れた声が降ってきた。藤内は、恐る恐るそちらを見上げた。仙蔵が綾部の襟首をつかんで、藤内から引きはがしてくれたのだった。
助かった。ああ、助かったんだ! 藤内は心底ほっとして、息を吐き出した。安心で、涙がこぼれそうになる。
仙蔵の向こうに、恐る恐るといった風にこちらの様子を窺う下級生の姿が見えた。後輩の前で情けない声をあげてしまった、と、藤内はにわかに恥ずかしくなった。忍者たるもの、何が起きても動揺してはならないのに。
「だって、飴が甘かったから」
綾部は口元に人差し指を当て、真顔でそう言った。仙蔵は、眉間に皺を寄せて「訳が分からん」と首を横に振った。それから、藤内の方に視線をやる。この作法委員長もまた容姿端麗であるので、綾部に見つめられるのとはまた違った意味で緊張してしまう。
「すまないな、藤内。助けるのが遅れた。大丈夫か?」
「だ……大丈夫、です」
何をもって大丈夫とするのかよく分からないが、とりあえず命と右目は無事だったので、藤内はそう答えた。
「仙蔵せんぱーい、だから絶対甘いと思うんです」
襟首を掴まれたまま、綾部が間延びした声で言った。
「うんうん、そうだな。わたしもそう思うよ」
流石に最上級生は、綾部の取り扱いも手慣れていた。何を言われても、「うんうん、そうだな」「その話はまた今度な」と、軽く流してゆく。
立花先輩、かっこいい……! 藤内は、彼に対する尊敬の念を新たにした。
「さあ、今日はもう解散にしよう」
綾部の首根っこから手を離し、仙蔵がよく通る声で言った。一年生ふたりが「はーい」と嬉しそうに声をあげる。藤内は、額に浮かんだ汗を拭った。目元に手を持って行くと、その部分が綾部の唾液で濡れていて、心臓が大きく波打った。
綾部の方を見ると、彼の興味はすでに別のことに移っているらしく、
「ター子、タコ美、タコ一郎ー」
と歌うように口ずさみながら、部屋を出て行った。藤内のことなど、ちらりとも見ようともしない。
この人は多分、自分と同じ生き物でないのだ。藤内はそう思った。だからきっと、彼のすることにいちいち驚いたり動揺するだけ無駄なのだ。
一気に疲労が蓄積した身体を引きずり、藤内は部屋を出た。すると、少し先の曲がり角から、綾部が顔だけを出してこちらを見ていた。藤内は思わず悲鳴をあげそうになったが、何とかそれを呑み込んだ。平常心平常心、と自分に言い聞かせる。
「藤内、藤内」
「何ですか、綾部先輩」
平常心平常心。胸の中で呪文のように繰り返す。
「藤内の目は、絶対に甘いと思うんだよね」
綾部はそう言って、ぺろりと舌を出した。
藤内の中から、平常心という言葉が瞬時に消え去った。恐怖が足の指先から這い上がってくる。それと同時にあの舌の感触が思い出されて、右の瞼がぞくりとした。
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