■おち■
「おれ、善法寺先輩って好きだな」
「えっ……何……、え!?」
放課後、特にやることもないので木陰で涼んでいたら、三郎が不意にそんなことを言い出して雷蔵は大いに動揺してしまった。
すると三郎は雷蔵の方を見て、真面目な顔でこう続けた。
「だって、六年の中で善法寺先輩が一番、からかい甲斐があるんだ」
三郎の言葉に、ああそういうことか……と、雷蔵は胸を撫で下ろした。驚いた。どういう意味なのかと思った。雷蔵は安心しかけたが、そんな場合じゃないということに気付く。先輩をからかうなんて、何を考えているのだろう、この男は。
「たとえば、立花先輩の前でどれだけ奇抜な変装をしても、返ってくるのは失笑のみだ。酷いだろう? こちらは身体を張っているというのに」
「よ、よく立花先輩をからかう気になるね……」
その度胸だけでも凄いよ、と雷蔵は嘆息を漏らした。怒るよりも感心してしまう。脳裏に、立花先輩の怜悧な視線が浮かぶ。雷蔵なんて、話しかけるだけでも躊躇してしまうというのに。
「潮江先輩なんか、もっと酷いぞ。『うむ、よく出来ている。今後もその調子で鍛錬を欠かすなよ!』なんて言うんだぜ。もっと他に言い様があるだろうに、なあ?」
「いや、同意を求められても困るけど……」
「ろ組のおふたりは論外だし」
「論外って」
「むしろあの人らは、人外だから」
「人外って」
「食満先輩は、あんまり行き会うことが無いんだよなあ」
三郎は腕を組み、機会があればからかうんだけど、と首をかしげた。雷蔵は「はあ」と、吐息に近い相槌を返した。
「だから、伊作先輩が一番好きだな」
「ああ……そう……」
三郎は随分と楽しそうだが、雷蔵は呆れて何を言う気にもならなかった。太い木の幹に身体を預けて、うねる枝をぼんやりと見つめる。
「あっほら、雷蔵。噂をすればなんとやらだ。我らが不運先輩がいらっしゃるぞ」
嬉々とした様子で三郎がこちらの肩を叩くので、雷蔵は前方に視線を向けた。確かに、善法寺伊作が歩いて来るのが見えた。両手で十冊ほど本を抱えていて、さらにその上に、きちんと畳まれた手ぬぐいを何枚も重ねて積み上げている。
「本当だ」
「不運、って時点で面白いよね。そこも好きだ」
「三郎、お前なあ……。それより善法寺先輩、荷物が多くて大変そうだよ。手伝ってこよう」
「待って、雷蔵!」
木から身体を離して伊作に駆け寄ろうとする雷蔵を、三郎は制した。その声が随分と真剣であったので、何かあるのかと思い雷蔵は足を止めた。三郎の方を振り返ろうとした瞬間、「うわあああ!」という悲鳴が聞こえてきた。慌てて視線を戻すと、伊作の姿が消えていた。そして、彼の居た辺りに大きな穴が空いている。雷蔵は一瞬ぽかんとして、その場に立ち尽くした。
「ほら、な? なっ?」
笑い転げる三郎の声を聞き、ようやく雷蔵は善法寺先輩が落とし穴に落ちたのだということを理解した。三郎は笑いすぎて苦しくなったらしく、ひいひい言いながら雷蔵の背中を叩いている。
「いやいや、そんなこと言ってる場合じゃないだろ! お前、あそこに落とし穴があるって分かってたなら、何で……」
「だって、雷蔵が巻き込まれたら困るじゃないか」
けろりとして三郎が言う。当たり前だろう、という顔をしていた。雷蔵は何か言いたいような気がしたが、何をどう言えばいいのか分からないしどう言っても三郎は理解してくれないだろうから、諦めた。
「とにかく、助けに行ってくる」
雷蔵は今度こそ、伊作の元へと駆け寄った。誰がこんなところに落とし穴を掘ったのだろう。やっぱり、四年い組の綾部喜八郎だろうか。
「善法寺先輩、大丈夫ですかっ?」
雷蔵は、穴の縁から下を覗き込んだ。落とし穴は随分と大きく、そして深かった。底に座り込んでいた伊作が、雷蔵を見上げて力無く笑う。
「や、やあ……」
そう言って、彼は手を振った。それから自分の肩に引っ掛かった泥まみれの手ぬぐいをつまみ上げ、「ああ、折角洗ったのに……」と切なげな呟きを漏らした。雷蔵は、彼の不運に心から同情した。
「今、縄を下ろしますね。……三郎も手伝ってよ」
懐から縄を取り出しつつ、三郎を振り返った。彼は、「はいはーい」と歌うように返事をしながら、軽快な足取りでこちらにやって来る。
縄の端を三郎とふたりで持ち、もう片方の端は穴の中に落とす。伊作がそれを掴んだことを確認してから、ふたりで力を合わせて引っ張り上げる。そして、あと少しで穴から彼の顔が出る、というときであった。
「うっ、うわあああ!」
突然伊作が悲鳴をあげ、何故か縄から手を離してしまった。
「せ、先輩っ!」
雷蔵は慌てて手を伸ばしたが、指先が一瞬触れ合っただけでその手を掴むことは出来なかった。伊作の悲鳴は長く尾を引き、穴の底へと吸い込まれていく。折角引っ張り上げようとしていたのに、再び穴の中へと逆戻りだ。
「一体何が……」
そう言いながら後ろを振り返り、雷蔵は思わずのけぞった。三郎の顔が、女装をしているときの山田先生のときのものになっている。頬骨の張りと具合と言い髭の剃り跡と言い、いつもながらに見事な出来映えであった。突然目の前にこんな姿が出て来たら、驚いて縄から手を離してしまうのも頷ける。
「お、お前、両手が塞がってたのに、どうやって変装したんだ」
雷蔵はつい、的外れな質問をしてしまった。明らかに、そんなことを言っている場合じゃないのに。すると伝子さん……の顔をした三郎は、艶めかしい仕草で唇を突き出した。
「企業秘密、よ」
「……いや、そうじゃなくて! 何やってるんだよ、こんなときに!」
ようやく我に返った雷蔵は、気を取り直して三郎に抗議した。すると彼は一瞬下を向く。ふたたび顔を上げたときにはもういつもの雷蔵の顔になっていた。
「あははは! やっぱおれ、善法寺先輩って好きだな!」
彼は、心の底から気持ちよさそうに笑った。雷蔵は呆れて、無言で彼の頭をぴしゃりと叩いた。すると彼は笑顔のままで「いてえ」と声をあげた。
「お前ら、こんなとこで何やってんだ?」
そこに、木材を肩に担いだ食満留三郎が現われた。此処に来る前に誰かと喧嘩でもしたのか、目の周りに真っ青な痣をこしらえていた。雷蔵の脳裏に、ギンギン、という単語が浮かんだが、とりあえず今はその話は置いておくことにした。
「食満先輩、実は」
雷蔵が事情を説明しようとしたら、穴の底から、おーいとめさぶろーう、という伊作の声が聞こえてきた。留三郎は木材を地面に置き、やれやれといった調子で穴を覗き込んだ。
「何だ、また落ちたのか」
「また落ちましたー」
「仕方ねえなあ。おい、不破。手伝え」
留三郎は、地面に落ちていた縄(先程、雷蔵たちが使ったものだ)を無造作に拾い上げた。
「あ、はい」
雷蔵と三郎は同時に返事をした。それから、お互いの顔を見る。
「何でお前が返事をするんだ」
また、ふたりの声が重なった。留三郎は、片手で縄を持ち、もう片方の手で頭を掻いた。
「どっちがどっちだよ。……まあ、どっちでも良いから手伝え」
先輩の言葉を受け、ふたりは同時に留三郎から差し出された縄の端を掴んだ。雷蔵は、むっとした表情で三郎を押しのける。
「三郎はもう良いから、手を出すなよ。あと、離れてて」
「うわ、雷蔵ってば、酷い」
「おまえが悪いんだろう。後でちゃんと、善法寺先輩に謝るんだぞ」
「おい、引っ張るぞ」
留三郎に促され、雷蔵は咳払いをひとつして穴の方に向き直った。留三郎の背後につくかたちで、縄を握る。留三郎は低く腰を落とし、ぐいぐい縄を引っ張った。流石、忍術学園いち忍者している潮江先輩と対等に渡り合える男。自分が手伝わなくても食満先輩ひとりでいけるのではないか、とこっそり思った。
「食満先輩、食満先輩! ちょっとこっち向いて下さい!」
後ろで、三郎の声がした。雷蔵はぎくりとした。
「あ? 何だよ」
ここに来るまでの流れなど当然知らない留三郎は、呼ばれたので振り向こうとする。雷蔵は、裏返った声で叫んだ。
「せ、先輩っ、振り返っちゃ駄目です!」
雷蔵の忠告もむなしく、留三郎は既に三郎の方を振り返った後だった。
「うわあああっ!」
留三郎の悲鳴が響き渡る。次いで、「えええええまたっ!?」という伊作の声。留三郎は力が抜けてしまったようで、伊作の体重に引っ張られて穴の中へと落下してゆく。
「せ、せんぱ……うわあ!」
彼の後ろで縄を引いていた雷蔵が、穴に落ちてゆく先輩ふたりの身体をひとりで支えられるわけもなく、彼の身体もまた大きく傾いた。視界の真ん中に、今まさに穴の底に到達しようとしている留三郎の姿が見える。その下には、もう何処までが泥で何処からが善法寺先輩なのか判然としない伊作が確認出来た。
このままぼくが落ちたら、伊作先輩はふたりの下敷きになってしまって相当辛いんじゃないだろうか。ああ、なんという不運。
「危ない、雷蔵!」
雷蔵が、いよいよ穴に落ちるというときであった。後ろから三郎の腕が伸びてきて、傾いでいた雷蔵の身体を抱き留めた。それで、雷蔵だけは落下を免れた。その瞬間下からは、ぐう、という伊作の呻きが聞こえてきた。留三郎が、伊作の上に着地したらしい。
それを見て、三郎は大笑いであった。身体をくの字に折り曲げて、目に涙を浮かべて笑う。今はもう雷蔵の顔だが、先程は別の顔だったはずだ。一体どんな顔で留三郎を驚かせたのか。それを尋ねるよりも先に、雷蔵は眉をつりあげた。
「三郎、お前なあ!」
「雷蔵、おれ、さっきの言葉を訂正するよ!」
「……何がだよ」
拳を振り上げていた雷蔵は、動きを止めて三郎に尋ねた。彼は満面の笑みで雷蔵の肩に手を置き、こう答えた。
「おれ、六年は組って好きだな!」
雷蔵は拳を固めなおして、遠慮無く拳骨で彼の頭を打った。すると三郎は笑顔のままで、「いてえ」と声をあげた。
「てめえ、鉢屋ふざけんな! 何で斜堂先生の女装なんだよ! ぶん殴ってやるから降りて来い!」
「と、留三郎……、その前に、どいてくれない、かな……」
暗い穴の底から上ってくる先輩方の声に、三郎は更に楽しそうに笑い始めたので雷蔵はもう一発三郎の頭に拳骨をお見舞いした。
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