■早口■
こんなことなら、おれだって宿題なんかやって来なければ良かった!
……と、三郎はずっと騒いでいた。宿題の配布間違いに翻弄された雷蔵が、オーマガトキ城に行くことが決まってから、ずっとこうだ。雷蔵は根気強くその愚痴に付き合っていたが、そろそろ耳にタコが出来そうだった。
「もう決まったことなんだから、仕方が無いじゃないか」
廊下を歩きながら隣の三郎を見やり、雷蔵は苦笑した。三郎はまだ納得がいっていないようで、雷蔵のとなりで「くそ、おれも宿題なんてやって来なければ良かった」と何十回目か分からない呟きを漏らす。
「そういえば、三郎の宿題はどんなだったの?」
「簡単だったよ」
なんとなく気になって尋ねてみたら、答えになっているようでなっていない返事が返ってきた。彼にかかれば、大抵の課題は簡単ということになるだろうから、いまいち参考にならない。
「そうじゃなくて、内容を聞いているんだけど」
「雷蔵は宿題をやっていなくて、おれはやって来た。それだけだよ。内容なんて意味が無い」
三郎は唇を尖らせた。すっかり拗ねてしまっている。何処の子どもだと雷蔵は思ったが、何も言わないでおいた。
「ところで雷蔵、きみは今何処に向かっているんだ。第二運動場はこっちじゃないぜ」
不思議がる三郎に、雷蔵は笑みを返す。
「うん、出掛ける前に、兵助を見舞っておこうと思って」
「ああ、ナルト城まで行って来たんだっけ」
「そう、肩に矢を受けて、今は医務室で休んでいるらしいから」
「ふうん」
三郎が気のない返事をすると同時に、医務室の前に着いた。雷蔵は「失礼します」と声をかけて、そっと戸を引いた。保健委員の川西左近が、桶を持って部屋を出ようとするところに行き会った。
「あ、不破先輩に、鉢屋先輩。久々知先輩のお見舞いですか?」
左近の手にしている桶には水が張られていて、泥で真っ黒になっていた。これから、水を汲みにゆくところらしい。
「うん、入っても大丈夫かな」
「はい、処置は終わりましたので、少しなら」
「ありがとう」
雷蔵は戸を更に引いて、医務室の中に入った。続いて、三郎も室内に入る。
医務室の奥にある衝立の向こうをひょいと覗き込むと、うつぶせに横たわる兵助の姿が見えた。右肩を中心に、包帯がぐるぐるに巻かれている。目を閉じた顔は、人形を思わせる白さだった。
休暇前、笑って別れた友人の無残な姿に、雷蔵は喉元が冷たくなるのを感じた。
「兵助……」
「あっらあ、兵助ちゃんてば男前になっちゃってえ」
雷蔵の呟きと、三郎の場違いなまでの明るい声が重なった。兵助が、瞼を重たそうに持ち上げる。
「……三郎と、雷蔵か……」
弱々しくはあったが、声を聞いて雷蔵は胸を撫で下ろした。それから、横目で三郎のことを睨む。
「三郎、こんなときに茶化すなよ」
「こんなときって? あら、もしかして兵助ってば、それくらいの怪我で音を上げちゃったの?」
「誰が!」
浮ついた三郎の口調に、兵助は語気をきつくした。それを聞いて、三郎は満足そうに頷く。
「だーよねー。あの優秀な久々知兵助くんが、こんくらいでへばるわけないよねー」
「兵助、大丈夫?」
三郎の軽い物言いはこの際無視して、雷蔵は身を屈めて兵助に声をかけた。これくらい、などと三郎は言うが、兵助の姿はあまりに痛々しく、彼に与えられた課題の過酷さを物語っている。
「大丈夫だよ、こんなの何でもないし」
兵助は三郎の言葉に対抗するかのように、眉を寄せてそう言い張った。雷蔵は困り顔になった。
「三郎の言うことは気にするなよ。どう見ても、酷い怪我じゃないか」
「いいや、平気だね」
「もー……」
頑として譲らない兵助に、雷蔵は呆れて溜め息をついた。全く生気のない顔で、何を言っているのだろう。
「いよっ、忍術学園いちの伊達男!」
「三郎!」
三郎が更に煽ろうとするので、雷蔵は厳しい声で彼を制した。すると兵助は、息を吐きながらゆるゆると首を横に振った。
「良いよ、雷蔵。三郎はこういう奴だ」
「まあまあ、良いじゃん。肩に矢傷なんて格好いいって。女を落とすときに使えるぞ。女は、秘密だとか暗い過去だとかに弱いからな。やったね兵助くん」
腕を組み、三郎は笑いながらそんなことを言う。いい加減にしろ、と雷蔵は怒鳴りつけてやりたかったが、兵助の傷に障ってはいけないと思いとどまった。
「何なんだ、さっきから。何しに来たんだよ、お前」
兵助は声に苛立ちを滲ませて言った。雷蔵は慌てて説明する。
「あ、いや、ぼくはもうすぐ補習でオーマガトキ城まで行かないと駄目だから、その前にお見舞いをと思って……」
「雷蔵は分かるよ。三郎は?」
「雷蔵が行くって言うから、ついて来ただけ」
「もう来んな」
兵助は即座に吐き捨てた。それを見て、三郎は嬉しそうに笑う。
「はっはっはっ、雷蔵がいなくてつまんないから、明日からも絡みに来てやるぜ」
「最悪だ」
兵助は顔をしかめ、心底嫌そうに呟いた。雷蔵の口から、無意識に吐息が漏れる。それと同時に、遠くから鐘の音が聞こえてきた。
「……あ、ぼくはもう行かないと。兵助、早く怪我治せよ」
慌てて立ち上がり、雷蔵は兵助に声をかけた。伏せったままの兵助は、「ああ、雷蔵、ありがとう」と言って薄く微笑んだ。その力の無い笑みに、雷蔵の胸は締め付けられるようだった。
「兵助、おれにありがとうは?」
隣から、また軽薄な声が割り込んできた。彼に対しては、兵助は「早く帰れ、ばーか」とぞんざいに言い捨てる。
「ひっでえ!」
三郎は、肩を揺らして笑う。雷蔵はそんな彼の腕を掴んで無理矢理立たせ、半ば引きずるようにして医務室から出た。
静かに戸を閉め、廊下を数歩進んでから雷蔵は立ち止まり、三郎を振り返って目を怒らせた。
「三郎、どうしてあんな言い方をしたんだ。いくら何でも、不謹慎……」
雷蔵はそこで言葉を切った。突然三郎が手を伸ばし、雷蔵の身体を抱き寄せたからだ。驚きの余り、声も出なかった。三郎は何も言わず雷蔵の肩に額を押しつけ、しがみつくように雷蔵を抱きしめる。
「三郎……」
目を瞬かせて、雷蔵は三郎を見下ろした。彼は顔を伏せたまま動かない。装束越しに触れる手が、随分と冷たかった。雷蔵は溜め息をついて、ふっと微笑んだ。
「……うん、そうだね」
頷いて、三郎の背に手を伸ばす。まったくいくつになっても手が掛かる男だ、と思いつつ三郎の身体を抱き返した。
「兵助が無事に帰って来てくれて良かったね」
雷蔵はそう囁いて、見栄っ張りで天の邪鬼で面倒くさい男の背中を優しくさすってやった。三郎の、雷蔵を抱く力が一層強くなる。ほんの少しの息苦しさを覚えながら、雷蔵は笑みを深くした。
「大丈夫だよ、ぼくだってすぐ帰って来るよ」
ゆっくりと、優しい口調で言いながら、三郎の背中をゆるゆると撫でる。三郎が、こくりと小さく頷く気配がした。
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