燃えるようなアバンチュール
山のように詰まれたチョコ。チョコ。チョコ。そこはまるで夢の国だ。しかし赤とピンクのディスプレイが結界となり、男は夢の国の中に足を踏み入れることはおろか、近づくことすらままならない。
「この時期のお菓子売り場って、チョコいっぱいで美味しそうだけど、男ひとりでウロウロは出来ないよねえ」
バレンタインチョコ特設売り場を遠巻きに眺め、雷蔵は隣を歩く三郎に声をかけた。すると三郎は軽い調子でこう言った。
「それじゃあ、おれがついてってあげるよ」
思いもよらない返事に、雷蔵は「えっ」と言葉を詰まらせた。三郎も首を傾げて「えっ」と言った。
ニューワールド
「机の中に入ってた場合、しばらくは手を触れず、教科書を取り出す際などに、初めて気が付きました、っていう体で取り出す」
突然八左ヱ門がそんなことを言いだすので、三郎は「何の話?」と尋ねた。すると八左ヱ門は少し遠い目をして、答えた。
「チョコを貰ったときのシミュレーション」
「うわっ……」
三郎は顔をしかめて舌を出した。ただでさえ今日は気温が低いのに、一層身体が冷たくなる。
しかし彼の愛する不破雷蔵はいたって真剣に八左ヱ門の話を聞いていて、更に「じゃあ、直接もらったときは、どうすんの?」なんて質問までしてしまう。そう訊かれたら、八左ヱ門は「おお、ちょっと見てろよ」と得意げに胸を叩く。そして急に内股になり、手に何かを持っているポーズで、もじもじと身体をくねらせ始めた。どうやら、『竹谷くんにチョコを渡す女子』を演じているつもりらしい。
「竹谷くん……あの、これ……っ」
八左ヱ門は気味の悪い裏声で言いつつ、両手を前に差し出した。びっくりするくらい寒い演技だった。いっそ腹立たしい。しかし、雷蔵が真面目に見ているので、三郎も一応黙って見守らなければならない。
「え、何?」
普段の声に戻った八左ヱ門は、不自然に格好付けた動作で振り返った。何故か手が前髪に添えられている。三郎はイラッとした。しかし、まだ我慢だ。
八左ヱ門は、差し出されたチョコ(があるのであろう箇所)に流し目をくれると、ふっと笑った。そして、「ああ」と軽く頷いてチョコを片手で受け取るふりをした。
「スマート!」
雷蔵は目をきらきらさせて手を叩いた。八左ヱ門は頬を紅潮させて、拳を握る。
「だろ! だろっ!」
いい気になる八左ヱ門に我慢が出来なくなり、三郎は、 「うっぜええええ!」 と叫んだ。それを無視して、八左ヱ門は続ける。
「いやあ、昨日、鏡の前でめっちゃ考えててさあ」
「っぜえええ! 殴りてえええ!」
「ぼくも、もし貰うことがあったら、そういう風に……」
雷蔵が恐ろしいことを言い出すので、三郎はぎょっとして彼を振り返った。
「えええっ! 普通に受け取ってよ!」
折角雷蔵の為にとびきり気合いを入れてチョコを作ったのに、あんな小芝居と共に受け取られたらたまったものじゃない!
涙で渡る血の大河
「おい……勘右衛門お前……! チョコを貰ったって聞いたぞ……!」
八左ヱ門は、一組の教室に入るなり、震える声でそう言った。
窓にもたれて兵助と立ち話をしていた勘右衛門は、青い顔の八左ヱ門を認めると、気取った仕草で顎を上げた。
「何だよ、もう二組まで回ってんのか。情報早いな」
「お前……本当なのかよ……!」
「ああ……それも手作りでな……」
その言葉は、八左ヱ門を更なるどん底に突き落とした。バレンタインに手作りのチョコ。それはすなわち「決して義理ではない」ことを示し、男であるならば誰もが夢見る頂であった。勘右衛門は八左ヱ門を差し置いて、その極みに達したというのである。
「なん……だと……?」
八左ヱ門は膝を折り、床に座り込んでしまった。それを見下ろし、勘右衛門が憐れみの視線を注いでくる。
「悪いな八左ヱ門……おれはもう、お前と同じ土俵には立てないんだ……」
「こ……この……っ! どうせ、失敗して真っ黒に焦げたやつとかなんじゃねえの!」
苦し紛れに吠える八左ヱ門だが、勘右衛門はまるで揺るがなかった。彼は何処からか、ピンク地に白の水玉模様の入った可愛らしい箱を取り出した。八左ヱ門の胸が更に騒ぐ。
「ふ……よく見な!」
そう言って、勘右衛門は勢いよく蓋を開け放った。
「この、手作りチョコロールケーキのはしっこ切り落とし部分をな!」
「…………」
「…………」
八左ヱ門は絶句し、兵助は目頭にそっと手を当てた。それを見て、勘右衛門は不満そうに唇を尖らせる。
「あっ何、もしかして、はしっこ馬鹿にしてる? 美味いことには変わらない上に、切るときにクリームがはみ出してくるから、むしろお得」
「勘右衛門もう良い……! もう良いよ……っ!」
八左ヱ門は勘右衛門の言葉を途中で遮り、涙目で彼に抱きついた。兵助も、うんうんと頷き、勘右衛門の背を優しく叩く。
「何だよその反応っ! 手作りチョコじゃんかよおお!」
納得のゆかない勘右衛門の叫びが一組にこだまする。気が付けば、その場にいた一組の男子は皆、目に涙を浮かべていた。
セット
女子たちが全員で企画して、クラスの男子に漏れなくチョコを配ってくれる……そんな吉報がもたらされた。男たちはそれを「女神の施し」と呼び、大いに喜んだ。いっそ狂乱と表現するのが相応しい程であった。
しかし、間もなく問題が発生する。女子のひとりが、
「あっ、これ一個足りないんじゃない?」
と発言したのである。男たちは動揺をあらわにした。しかしすぐに、別の女子がこう言った。
「鉢屋と不破は、ふたりで一つでも良いんじゃないの?」
瞬間、教室中に「ああ……確かに……」という空気が流れ、チョコ不足問題は横へと流されていった。
……のちに不破雷蔵は、「チョコの量が減らされたことよりも、あのとき誰も異論を唱えなかったことの方がショックだった」と、親しい友人にこぼしたという。
すり抜けた太陽
「……おれだって、本当はチョコが欲しいよ」
「へえ、三郎は、どんな子からもらいたいの?」
「きみみたいな、ひとから」
めいっぱいの勇気を出して言ったのに、きみは「その例え、よく分かんないなあ」なんて、ころころ笑うのだ。
ちくしょう、口唇でも奪ってやろうか。
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